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史書に登場する泡盛話

新井白石の泡盛7年古酒説

1609年の薩摩の侵攻以降、琉球国は薩摩藩の命を受けて、徳川幕府へ18回に渡り、王子を正使とする総勢百数十人の使節が派遣されています。これは「江戸上り」と呼ばれ、琉球国王が即位した際には謝恩使が、幕府の将軍が即位した際には慶賀使が派遣されました。

当時、琉球国の正装は、中国風の衣装でしたし、中国の楽器を奏でながら薩摩から江戸までの道のりを練り歩く江戸上りの一行を、人々は興味津々で迎えたに違いありません。
徳川幕府(徳川家宣)に仕えていた江戸時代の儒学者で、新井白石(1657-1725)もその一人でした。
江戸上りの琉球使節やそれを引率する形の薩摩の藩士からいろいろ情報を収集し、さらには中国の冊封使禄などの資料を紐解いて、琉球のことを「南島志」(1719年)にまとめています。新井白石の取材に応じた琉球側の使節には、4人の王子のほか、琉球に初めて学校を設立した教育者、程順則(名護親方)、組踊の始祖ともいわれる玉城朝薫も含まれていることからも、かなり深く琉球の素顔に触れていたことが推測できます。

この『南島志』には、泡盛についても、次のように詳しく記されています。
「滴露の方、始め外国より伝はる。色味清くして淡、これを久しゅうして壊せず、よく人をしてよはしめ易し。使琉球禄にシャムより出づといふも亦非なり。造法はシャムと同じからず。米を蒸して麹を和し各分剤あり。すべからく水を下すべからず、封醸して成る。甑を以って蒸してその滴露をとる。泡のごときものを甕中にもり、密封七年にして之を用ふ。首里醸すところのもの最上品とす」
蒸留方法はシャム(タイ)からもたらされたというが、タイの酒造法とまったく同じではなく、米を蒸して麹をまぶし、水を加えることなく封をして発酵させ、それをさらに蒸留して造るという作業工程が、詳しく聞き書きされています。
さらに、注目したいのは、「密封7年にして之を用ふ」という記述。
琉球王朝時代の泡盛は、最低でも7年は熟成させてから飲まれていたということを意味するのでしょうか。これからすると、江戸には常に、7年古酒以上の泡盛が渡っていたのかもしれません。興味深いですね。

江戸時代は薬だった泡盛 »

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